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ペトロカスイ岐部の軌跡 | セミナリオ入学

セミナリオ入学

ペトロカスイ岐部は豊後国国東郡の岐部(現・大分県国東市国見町岐部)で、父ロマノ岐部と母波多マリアの、キリスト教徒の両親の間に生まれました。岐部の生まれた1587年は、秀吉による伴天連追放令の出された年です。奇しくも、切支丹に対する世の風向きが変わり始めた時期にあたります。
父ロマノ岐部はかつて海賊と恐れられた豊後水軍の流れをくむ豪族の末裔でした。

13歳で有馬のセミナリヨに入学しました。セミナリヨ(ポルトガル語:seminaryo)は歴史用語で、イエズス会によって日本に設置され、1580年〜1614年の間に存在したイエズス会司祭・修道士育成のための初等教育機関(小神学校)のことです。当時のキリシタンとしては最高の教育環境です。そこにはかつて天正少年遣欧少年使節としてローマに渡った伊東マンショ、中浦ジュリアンらがいましたので、直接西欧の世界を見た彼らからも、薫陶を受けることができました。

1606年、イエズス会入会を志して「カスイ」と号しました(カスイの意味に関しては「活水」など諸説あるが明らかになっていません)。以後、イエズス会の諸資料において「ペトロカスイ・岐部」と書かれています。 1614年、先述の禁教令によってマカオに追放されるまで、ペトロカスイ岐部は司祭になるために勉強していました。